『ソラリス』は、スタニスワフ・レムが、人間には理解できない地球外の存在との接触を描いたSF小説です。心理学者ケルヴィンが訪れた研究ステーションで、亡くなった恋人ハリーが姿を現します。しかし、彼女との再会だけが物語の謎ではありません。惑星を覆う巨大な海は、人間に何をしているのでしょうか。

ここで扱うのは原作小説です。ネタバレなしのあらすじから、ハリーの存在と原作の結末、ソラリスの海をどう読めるかを説明します。映画『惑星ソラリス』や2002年の『ソラリス』とは、出来事や終わり方を区別します。

目次

『ソラリス』小説のあらすじ【ネタバレなし】

心理学者クリス・ケルヴィンは、惑星ソラリスの研究ステーションへ赴任します。ところが、先にいた研究者たちはひどく動揺し、彼に事情を説明しようとしません。やがてケルヴィンの前にも、そこにいるはずのない女性が現れます。地球で亡くなった恋人ハリーです。

ソラリスを覆う海には、何かを生み出す力があります。しかし、人間は長い研究を続けても、その活動の意味をつかめていません。ケルヴィンは海を調べるはずが、自分の記憶や後悔に向き合わされることになります。出版社の作品紹介でも、心理学者と亡き恋人の再会が物語の出発点として示されています。

原作は1961年に発表された、ポーランドの作家レムの小説です。「ソラリス」は惑星の名前であり、人物の名前ではありません。

登場人物と「海」の関係

名前 原作での立場
ケルヴィン 地球から研究ステーションに来た心理学者。過去のハリーについての記憶を持っています
ハリー ケルヴィンの前に現れた女性。地球で亡くなった恋人と同じ姿をしています
スナウト ステーションの研究者。ケルヴィンと、そこで起こっている現象について話します
サルトリウス ステーションの研究者。現象を物理的に調べようとします
ギバリャン ケルヴィンが到着した時には、すでに亡くなっている研究者です
ソラリスの海 惑星規模の存在。人間のような顔や言葉を持つ宇宙人ではありません

宇宙人が人間の言葉で目的を説明してくれる物語ではないので、何が起きたかと、なぜ起きたかを分けると理解しやすくなります。

ハリーは生き返ったのですか?【ネタバレあり】

現れたハリーを、地球で亡くなった女性がそのまま生き返った存在と考えることはできません。 海の働きによって、ケルヴィンの内にある記憶と結びついた存在が、物質的な姿を取っています。

単に頭の中で見えている幻覚とも違います。研究ステーションで実際に関わることのできる存在だからこそ、ケルヴィンは彼女をどう扱うべきか迷います。

レム自身の作品についてのエッセイでも、海が人間の心の奥にあるものを形にしていることと、ケルヴィンがハリーを受け入れていく過程が説明されています。

ここには二つの問いがあります。以前のハリーと同じ人なのか。そして、同じ人でないとしても、目の前で苦しむ彼女をただの物として扱ってよいのか。この二つは、同じ答えにはなりません。

記憶から生まれたと説明できても、その存在に対する責任まで消えるわけではありません。ケルヴィンにとっては再会でも、ハリーにとっては、自分が何者かを知っていく苦しい経験にもなります。

原作小説の結末を解説

終盤、ハリーは自らの消滅を望み、ケルヴィンの知らないところでステーションの研究者に協力を求めます。彼女が消えたことを知ったケルヴィンは、再び彼女を失うことになります。この点は、先に挙げたレム自身のエッセイでも確認できます。

その後、ケルヴィンはソラリスの表面に降り、海に向き合います。原作の最後の場面は、映画で見覚えのある故郷の家の映像と同じではありません。終盤の海に接する場面と日本語版の該当箇所は、版ごとのラストを比較した読書記事でも確認しました。

ただし、海が何を意図していたのかが、最後に明確な答えとして与えられるわけではありません。ハリーとの幸福な生活が戻ることも保証されません。

この結末は、謎を完全に解いたから安心できる、という終わりではないと読めます。海を理解できないことと、そこに向き合うことをやめるかどうかは、別の問題です。ケルヴィンの態度の変化を追うと、説明のつかないものが残ったまま物語が終わる意味を考えやすくなります。

ソラリスの海は、人間を苦しめるために行動したのですか?

人間が苦しんだことから、海に人間と同じ悪意があると決めることはできません。 愛情、嫌がらせ、実験といった言葉は、人間が相手の行動を理解するための分類です。ソラリスの海が、その分類に従っているかは分かりません。

レムは作品について、人間でも人間に似た存在でもないものとの遭遇を描こうとしたと説明しています。これは作者自身の説明です。一方、個々の場面をどう感じるか、海を神や鏡のような存在として読むかは、読者の解釈になります。

ハリーが現れたことは確認できても、その理由を人間の感情だけから決めることはできません。分かりやすい宇宙人に置き換えられないところに、本作の難しさがあります。

ソラリス学の説明が長いのはなぜですか?

本作には、海の形や活動について、研究書を読むような説明が続く部分があります。これがソラリス学です。

その箇所では、研究の名前や記録は積み重なっているのに、海の意味はつかめない、という状況が示されています。現象を細かく記録することと、その現象を理解することは同じではありません。

たとえば、海がある形を作ったとして、その輪郭を記述することはできます。しかし、それが人間への返事なのか、海の活動の一部なのかは別の問いです。レムのエッセイでも、海の活動を人間の言葉に翻訳できない問題が説明されています。

ここを単なる設定資料として扱うと、恋人との再会の場面から遠回りしているように見えるかもしれません。けれども、知識が増えても相手を理解できない状況は、ケルヴィンとハリーの関係にも重なって見えます。難解な用語を一度で覚えるより、研究者が何を説明できて、何を説明できていないかを追うと、物語とのつながりをつかみやすくなります。

『ソラリスの陽のもとに』と『ソラリス』――旧訳と新訳の違い

この二つは、別の続編ではなく、同じ原作の日本語訳です。ただし、翻訳の元になった言語と収録されている文章に違いがあります。

日本語版 訳者 翻訳の元になった言語
『ソラリスの陽のもとに』 飯田規和 ロシア語訳を介した重訳
『ソラリス』 沼野充義 ポーランド語原典からの翻訳

国立国会図書館の資料解説は、旧訳のもとになったロシア語版に削除部分があることと、現在は原典から直接訳した完全版があることを説明しています。早川書房の新訳紹介でも、ポーランド語原典からの完全翻訳版と確認できます。

文章の読み味だけでなく、ソラリス学の記述を含めて原作を読みたい場合にも、版の違いは関わります。本の感想を比較するときは、題名と訳者を合わせて確認すると混同を避けられます。

原作小説と映画『惑星ソラリス』の違い

代表的な映画化には、1972年のアンドレイ・タルコフスキー監督『惑星ソラリス』と、2002年のスティーヴン・ソダーバーグ監督『ソラリス』があります。制作年と監督は、レムの公式サイトの1972年版と2002年版で確認できます。

亡き恋人との再会という共通する要素があっても、登場人物の描き方や結末まで同一ではありません。特に映画のラストを見てから原作を調べる場合は、どの作品の話をしているのかを区別してください。

レムの2002年のエッセイは、本人がその時点で映画も脚本も見ていないと断ったうえで、原作の主題を説明したものです。その文章を、映画を鑑賞した後の感想として紹介するのは正確ではありません。

原作を読む際には、海そのものの描写と、研究しても分からないことが残る状況に注目すると、恋愛の筋だけを追う場合とは違う輪郭が見えてきます。映像版の評価を、そのまま原作の評価へ移す必要はありません。

『ソラリス』を読むときの手がかり

まずは、ケルヴィンの前に何が現れ、彼がどう反応するかを追ってください。そのうえで、海の動機を自分がどれだけ人間の感情に置き換えて読んでいたかを振り返ると、解釈を広げられます。

物語には愛情も後悔もあります。しかし、相手が何者なのか分からないとき、愛しているという思いだけで、その相手を理解できるのでしょうか。本作は、その問いを残す小説として読めます。

人間とそれに似た存在をどう区別し、どう扱うかという点では、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解説とも比較できます。どちらも人間の姿をした存在を扱いますが、その存在が生まれる仕組みと、登場人物に突きつけられる問題は異なります。