『流れよわが涙、と警官は言った』は、三千万人に知られるテレビスターが、ある朝、自分を知る人も公的な記録もない世界で目を覚ますSF小説です。フィリップ・K・ディックが描くのは、記憶をなくした人ではなく、記憶はあるのに自分の存在を証明できなくなった人の危機です。

身分証を持たないことが逮捕や収容につながる警察国家で、主人公は自分が誰なのかを認めてもらおうとします。やがて物語は、その男を追う警官が抱える喪失へも進んでいきます。

まずネタバレなしの概要を紹介します。KR-3の仕組み、題名の「警官」、エピローグについては、後半でネタバレを含めて解説します。

『流れよわが涙、と警官は言った』とは

原題は Flow My Tears, the Policeman Said。原作は1974年に刊行され、日本語のハヤカワ文庫版は友枝康子訳です。早川書房の紹介では、ジョン・W・キャンベル記念賞受賞作として案内されています。

舞台は、警察による監視と身分確認が生活を支配する架空のアメリカです。1988年という設定は、刊行当時から見た未来に当たります。実際の1988年の社会を記録した小説ではありません。

あらすじ|三千万人の人気者が「存在しない男」になる

ジェイスン・タヴァナーは、テレビ番組と歌で名を知られる人気スターです。ところが襲撃を受けて病院に運ばれたあと、見覚えのない安ホテルで目を覚まします。

身分証はなく、知人に連絡しても誰も彼を知りません。国家のデータバンクにも、彼の存在を裏づける記録がありません。本人はこれまでの仕事や人間関係を覚えているため、周囲の反応と自分の記憶がかみ合わないのです。

この世界では、記録がないことは自由を意味しません。検問で身元を確認できなければ、自由を奪われかねません。タヴァナーは偽造の身分証を手に入れようとし、警察の監視や密告に巻き込まれていきます。

ここまでは物語の導入です。以下では、現実が変わった理由と終盤の展開に触れます。

主な登場人物

人物 物語での役割
ジェイスン・タヴァナー 人気スター。記憶を保ったまま、周囲から存在を認められなくなります
フェリックス・バックマン タヴァナーを取り調べる警察高官。アリスの死で大きく揺らぎます
アリス・バックマン フェリックスの妹。タヴァナーを知っており、KR-3と現実の変化に関わります
メアリー・アン・ドミニク 陶芸家。逃げてきたタヴァナーを助けます

ネタバレありのあらすじ|バックマンとアリス

警察に追われるタヴァナー

身分を取り繕って逃れようとするタヴァナーを、警察の高官フェリックス・バックマンが取り調べます。タヴァナー自身にも原因が分からないことを見抜きながら、バックマンは彼を警戒し、監視を続けます。

二人の関係を変えるのが、バックマンの妹アリスです。他の人々と違って、アリスはタヴァナーをスターとして知っています。彼女は彼の追跡装置を外し、自宅へ連れていきます。

アリスの死と、戻ってくる知名度

アリスの家で薬物を使ったタヴァナーは、やがて彼女が死んでいるのを見つけます。慌てて逃げ出した彼を助けるのは、陶芸家のメアリー・アン・ドミニクです。

その後、店のジュークボックスからタヴァナーの歌が流れ、人々が彼をスターとして認めるようになります。彼の存在は、再び周囲の世界と一致し始めます。

しかし、身元が戻ったからといって危機が終わるわけではありません。今度はアリスの死への関与を疑われ、タヴァナーは自分の潔白を示す必要に迫られます。

なぜタヴァナーの存在が消えたのか|KR-3の説明

作中で原因として説明されるのは、アリスが使った実験的な薬物KR-3です。彼女の知覚が別の可能性の世界へ移り、その影響がタヴァナーにも及んだため、彼は自分が存在しない世界へ入り込んでいた、と説明されます。アリスの死によって、その状態が終わります。

つまり、タヴァナーが記憶を失ったわけでも、警察が彼の登録情報を消しただけでもありません。また、彼がアリスの家で飲んだ薬と、世界の変化の原因となるKR-3を、そのまま同じものとして扱うと経緯が混乱します。

KR-3は作品内の架空の設定です。この説明を、現実の薬物が他人を別世界へ移すという科学的な主張として読む必要はありません。現実の足場を失う仕掛けと、その状況で人がどう扱われるかを分けて見ると、物語を追いやすくなります。

結末を解説|スターの帰還と警官の涙

タヴァナーは元の世界へ戻り、最終的には容疑も晴れます。一方、題名につながる涙の場面は、彼ではなく警官バックマンのものです。存在消失の謎が解ける結末と、警官が悲しみに直面する結末を分けると、終盤の焦点が見えてきます。

バックマンはアリスの死を悲しむ一方、タヴァナーを事件の容疑者に仕立てようとします。私的な事情を隠すために、警察の権力を利用するのです。

そのバックマンが、終盤では見知らぬ黒人男性に感情的な支えを求めます。愛する人を失い、肩書や権力だけでは自分を支えられなくなった警官の姿が描かれます。ディック自身のエッセイでも、ガソリンスタンドで起きるこの場面はバックマンの行動として説明されています。

エピローグでは、その後の人物たちの運命も示されます。タヴァナーは罪を晴らし、バックマンは警察の仕組みを告発する文章を残したのち殺されます。メアリーの陶芸には、後に高い評価が与えられます。現実が元に戻ることと、誰もが幸福になることは同じではありません。

題名の意味|「警官」と喪失の物語

題名の「流れよわが涙」は、ジョン・ダウランドの歌曲 Flow, my tears に由来します。そして、終盤で涙を流す警官はバックマンです。

物語の入口では、名声を失ったタヴァナーが中心にいます。終盤では、人を支配する側にいたバックマンも、他者の助けを必要とする姿を見せます。題名は、この二つの喪失をつなぐものとして読むことができます。

ただし、悲しみを知ったことは、バックマンがタヴァナーにしたことの免罪にはなりません。人間的な弱さが描かれることと、その人物の行為を肯定することは分けて読む必要があります。

読みどころ|存在を認めるのは誰か

有名であること、国家に登録されていること、目の前の一人に受け入れてもらうこと。この小説では、それぞれが別の形で人の存在を支えています。タヴァナーは前の二つを失い、バックマンは権力を持ちながら個人的な悲しみを抱えます。二人の状況は違いますが、他者なしに自分を支えきれないという点で交差します。

同じ作家が現実の不確かさを描いた『ユービック』のあらすじと結末では、生死の区別そのものが揺らぎます。本作を読むときは、その謎に加えて、誰が誰に助けを求めるのかにも注目できます。