伊藤計劃の『ハーモニー』は、病気をほぼ克服した医療社会で、世界同時多発の自殺事件が起きるSF小説です。主人公の霧慧トァンは、事件を追ううちに、少女時代に死んだはずの友人・御冷ミァハと、人間の意識を変える計画にたどり着きます。

2008年刊行の原作小説を扱います。まず結末を伏せて世界観を説明し、その後で事件の真相、最後に何が失われるのか、ETMLという文章形式の意味を整理します。2015年のアニメ映画とは、終盤の人物の動機を分けて考えます。

『ハーモニー』のあらすじ【ネタバレなし】

舞台は、大災禍と呼ばれる世界的な混乱を経た21世紀後半です。社会は生命と健康を最優先に再建され、体内の医療分子による監視・治療で、多くの病気が過去のものとなりました。

一方、自分の身体を自分だけのものと考えることは難しくなっています。周囲の人は善意から互いの健康を気遣い、不摂生は社会に対する責任を欠いた振る舞いと見なされます。守られているのに、放っておいてもらえない社会です。早川書房の作品紹介でも、この医療社会と三人の少女の抵抗が導入として示されています。

トァンは、少女時代にミァハ、零下堂キアンとともに、その社会から逃れようとしました。13年後、世界保健機構の螺旋監察官となったトァンが日本へ戻ると、キアンとの再会をきっかけに、世界を揺るがす事件が始まります。

生府・WatchMe・ハーモニー・プログラムとは

用語 作中での役割
生府 医療合意共同体。人々の生命・健康を中心に社会を運営する統治機構です
WatchMe 体内の状態を監視するシステム。身体の管理と社会の規範が結びついています
ハーモニー・プログラム 人間の欲求や意志を調整し、社会との完全な調和を実現しようとする計画です

WatchMeとハーモニー・プログラムは、同じ意味ではありません。前者が日常の健康管理を支えるのに対し、後者は人間がどう判断し、どう行動するかに踏み込む仕組みです。その違いが結末につながります。

トァン・ミァハ・キアンの関係

霧慧トァンは物語の中心となる女性です。健康社会の秩序を担う仕事に就きながら、その価値観に反発し、体内の監視を欺いて酒や煙草を楽しんでいます。

御冷ミァハは、少女時代のトァンを強く引きつけた友人です。生府の管理を嫌悪し、三人で死ぬことで社会に抵抗しようと提案します。トァンにとっては、過去の人物でありながら、現在の行動を左右し続ける存在です。

零下堂キアンは、二人とともに抵抗を試みたもう一人の友人です。成人後は社会に適応して暮らしているように見えますが、その死がトァンを事件の調査へ向かわせます。

原作小説のあらすじ【ここから結末のネタバレ】

少女時代の抵抗と、13年後の自殺事件

三人は食べることを拒み、健康で生き続ける義務から逃れようとします。この出来事ではミァハだけが死亡したとされ、トァンとキアンが生き残ります。

13年後、帰国したトァンの前で、キアンが自ら命を絶ちます。同じ日に世界各地で自殺が起き、医療によって安全を保障されていた社会が揺らぎます。さらに、他人を殺さなければ自分が死ぬという脅迫が広まり、人々は追い詰められていきます。

トァンは、事件の背後にミァハがいるのではないかと考え、調査を進めます。父ヌァザとその研究に接近することで、健康の管理を超えた、人間の意志を制御する仕組みを知ります。

ミァハは生きており、意識のない調和を求めていた

死んだはずのミァハは生きていました。事件を引き起こした目的は、単に健康社会を壊すことではありません。社会を危機に追い込み、その解決としてハーモニー・プログラムを実行させることです。

作中では、意識は、脳内にある複数の欲求の衝突や調整から生じるものとして説明されます。欲求が完全に調和し、判断に迷う必要がなくなれば、意識そのものも不要になる。プログラムは、その状態を技術によって実現します。

これは小説内の設定・仮説です。現実の医学で、意識をこの方法で消せると確認されたという話ではありません。

トァンがミァハを撃っても、計画は止まらない

トァンはチェチェンでミァハと対面します。原作では、キアンと父の死に対する復讐が、ミァハを撃つ行動に結びつきます。

しかし、ミァハを撃つことは、世界を元に戻すことにはなりません。混乱に対処するためにプログラムが実行され、人類は意識を失った調和の状態へ移行します。実行を迫る社会の状況は、ミァハ一人の生死では取り消せなかったのです。

『ハーモニー』の結末は、何を意味するのでしょうか

最後に失われるのは、身体の生命だけを基準にしては説明できないものです。人々は生き、社会は機能していても、自分が何かを経験し、迷い、選んでいるという主観的な意識が消えます。

結末で起きること 混同しやすい点
主観的な意識が消失する 全員の身体が死ぬという結末ではありません
身体の生命と社会の営みは続く 生き残った本人が、その平和を幸福だと感じているとは言えません
トァンがミァハを撃つ 射殺したことでプログラムが中止されるわけではありません
感情や経験が記録として語られる 意識を失った後の語りを、通常の一人称の独白と同一視すると読みにくくなります

病気や争いを減らすことは、一般には望ましい目標です。しかし、その達成のために、望ましいかどうかを感じる本人まで消してしまってよいのでしょうか。『ハーモニー』の結末は、その問いを突きつけます。

ミァハにとっては意識の消失が苦痛からの解放になります。一方、トァンの抵抗や復讐は、他人と折り合えなくても自分で選ぶ行為です。二人の関係には、同じ社会への反発から出発しながら、異なる終点へ向かうねじれがあります。

ETMLとは何ですか? タグで書かれる理由

ETMLはEmotion-in-Text Markup Languageという、作中の感情記述のための形式です。本文には、プログラムやウェブ文書を思わせるタグが入り、感情や内面の動きが分類・記録されます。作家Eli K. P. Williamの書評も、この形式が物語の結末と関係する点を扱っています。

最初は、文章の見た目を変える技巧のように見えます。しかし、意識が失われた後にも人の経験を記述できる形式だと考えると、意味が変わります。「わたし」と感じた存在が失われても、その感情は記録として残る。 ただし、記録として表現できることと、誰かがその感情を今まさに経験していることは別です。冒頭のタグを、結末を知ったうえでもう一度見ると、この隔たりが読み取れます。そのように読むことで、物語の語り方そのものが、最後の出来事に関わってきます。

優しい社会が、なぜディストピアになるのでしょうか

この世界の息苦しさは、誰もが露骨に悪意を持っているために生じるわけではありません。健康を守ることが正しいとされ、それ以外を望む自由が小さくなっているためです。

根村直美の論文は、社会全体の資源として扱われる身体と、個人の身体・自己の関係から作品を分析しています。「『ハーモニー』の描く近未来に関する一考察」で示されるこの視点は、トァンたちが何から逃れようとしたのかを理解する助けになります。

同じ作者の『虐殺器官』では言葉を介した行動の制御が問題になります。二作品の違いを考えるなら、『虐殺器官』のあらすじ・結末の解説と読み比べると、健康を守る仕組みが人を動かす仕組みに変わる、本作の特徴が見えます。

小説とアニメ映画では、結末が違いますか?

2015年のアニメ映画も、トァンとミァハの再会、銃撃、意識の消失という大きな流れを描きます。ただし、トァンが撃つ動機の表現や、最後の映像によって受ける印象は、原作と同じではありません。

原作を読む際は、映画の白い空間や人物の映像を、そのまま小説の答えに当てはめないほうが理解しやすくなります。小説では、トァンの行動と、ETMLで残された語りの関係まで読むことが、結末を考える手がかりになります。